2016年12月29日

第二部 黒の王 -3-

 書面に手をかざす。ちりりとてのひらが痛み、インクを使っていないのに紙の上には絡み合う四頭の馬が浮かび上がった。
 四頭の馬は黒の神獣だ。書面にしるされた神獣の模様は『王印』と呼ばれ、王の命令書には必ずこのしるしが押されていた。
 黒の王を継承すると、まず両手の甲にティンクチャーがあらわれる。そして『王印』を刻印できるようになる。
 このふたつが備わっていることが王であるあかしで、逆に言えばこれだけで王になれる。
 私は王印をしるした命令書を、机を挟んで向かいに立っていたレイヴンに手渡した。
 レイヴンは書面に目を通し、厳かな口調で「確かに」と言いながら服に仕舞った。これまでレイヴンに託した命令書の内容は数日以内に実行されていたので、今回も同じように上手くやってくれるだろう。
 命令書には兄弟のひとりの処遇について書いてあり、黒の宮殿を出て、中央と南方の境の街で暮らすようにという命令だ。
「こう頻繁に命を下しては、側近や臣下たちをいたずらに煽ることになりかねません。時期をみてはいかがですか」
 レイヴンの言う『側近や臣下』の多くは、私の兄たちだ。
 これまでの黒の宮殿では、政務に必要な知識を持っていなくても、術師としての能力に秀でている者たちには、重要な役職が与えられていた。
 そういう者から順に、私は少しずつ兄たちを宮殿から追いやった。
 兄たちが悪かったわけではない。彼らは術師の力は絶対だと祖父に刷り込まれて育ち、宮殿の中では力がなによりも尊重されると信じていた。私は黒の宮殿から、そういった考えを消し去りたかった。
 脳裏にはいつも祖父の凶行があった。王の地位を守るために容赦なく血縁を殺し、オブシディアンを地下牢で拷問した姿があったから、同じ道を行きたくはなかった。
 神の力がなくても、パーディシャーとしての責務を果たせると証明したかった。その道は簡単ではなく、兄たちの不満は日に日に募った。
 私がいくら神の力が不要だと説いたところで、術師の力を持つ彼らには、力を持たない者の妬みにしか聞こえなかっただろう。
 実際、歴代の黒の王に能力者は多かった。強い能力を持つ王こそパーディシャーにふさわしいと、他の王たちからも認められた。黒の王は王宮における強大な地位を、神の力によって維持していた。
 私は椅子の背にもたれ、まっすぐにレイヴンを見た。
「妬みと言われても、見せしめと思われてもかまわない。術師を政務に関わらせていた祖父のやり方は、間違っていたと思う。私は術師には頼らず新しいやり方で黒の宮殿を治めていく。力を貸してくれ、あにさま」
「……もう私を『あにさま』とは呼んではいけない。私は臣下のひとりにすぎないのだ」
 私は肩をすくめて応えた。
 レイヴンは困ったように片眉を上げてから、「お考えに従います、シャー」とうなずいた。
 それから、そっと自分の左肩を服の上から撫でた。
 祖父に襲われて左腕を失った兄だけは、いつでも私の味方をしてくれた。祖父の思い出を忌避する私の気持ちを、側近たちの中でただ一人、わかってくれていた。
 お互いに不安を抱えていると気づきあっているのは、共鳴のようでも慰めのようでもあり、長兄といる時だけは、王としての重責を少しだけ肩から下ろすことができた。
 レイヴンは部屋を出ていこうとしたが、振り向いてわずかに表情を曇らせた。
「術師に頼らないというのであれば、真っ先に処理しなければならない問題があります。あの者が『声』の術師だと側近に知られる前に、どうかご決断を」
 兄の言いたいことはすぐにわかった。
「オブシディアンはもう術師ではありません。今は私の侍従です」
「術師として利用しないのであれば、なんのためにおそばに置いているのです」
「彼は長年、地下牢に閉じ込められていたので世間の常識も知らず、おまけにあの容姿です。どう見ても怪物としか言いようのない男を、街に放り出せば騒ぎになるとわかるでしょう? 生涯、宮殿に匿うしかないのです」
「……それはあなたの名です、オブシディアン」
 兄の言い分はもっともだ。
 私は宮殿から術師を排除しようとしているのに、最強の術師である怪物を、自分の部屋に住まわせている。だが、能力を使わせるつもりはなかった。
 長年、牢に閉じ込められて酷使された男の、外に出たい、という願いを叶えてやりたかっただけだ。
 レイヴンはわずかに言いよどんでから、くちを開いた。
「私が心配しているのは、あの男が術師だからというだけではありません。あの男は危険です。今は従順なふりをしていても、いつかシャーに牙を剝くかもしれません」
「オブシディアンが私を? ありえない」
 鼻で笑い一蹴したが、レイヴンは表情を変えなかった。
「シャー、冷静にご判断ください。あの男は『王』を憎んでいます。憎むだけの理由があると、あなたはご存知のはずです」
 そう言い捨てて、部屋を後にした。


 肌の爛れや傷をいやす効能があると聞いて、塗り薬を取り寄せた。
 オブシディアンの肌は魚のうろこのように硬い。そのせいで指もうまく動かせなかったから、きっと薬が役に立つだろうと思い、他国から包みが届くとすぐに彼のもとに届けさせた。
 強張った指で身体に塗るのは無理かと思い、侍従にやらせようとしたが、オブシディアンはそれを嫌がった。
 薬は自分で塗ると言いはっていたが、数日が過ぎても薬壺の量は一向に減っていなかった。私は自室に戻るなり、薬壺を手に取った。
「座りなさい」
 声をかけると、椅子も寝台もあるのにオブシディアンは床に座った。
 目深にかぶっていたフードをぱさりと退けてから、襟元の留め具を外して、ローブを脱がせてやろうとした。
 オブシディアンはぎょっとしたように、両手で私の腕をつかんだ。
「待て。私はなにを、されている?」
「背中は自分では塗れないでしょう。仕方ないのでそこだけは手伝ってあげます」
「なぜキミが、私の傷を、気にする?」
 私は怪物の手をふりほどいた。
 薬壺のふたを開けて、右手を突っ込む。白くぬるりとした塗り薬をたっぷりと手に取り、オブシディアンのほおにふれた。
 ごわついた肌に薬を塗りこむ。こするといっそう皮ふが硬くなると商人から聞いていたので、できるだけ優しくなでた。
 塗ればすぐにやわらかくなるという謳い文句だったわりに劇的な変化はなく、気長に何度も塗るしかないとあきらめた。
 顔を塗り終えると、首にうつり、うなじをたどって背中にも手を伸ばした。
 ローブに隠された肌を撫でる。そのあいだずっと、オブシディアンは硬直していたが、私が背骨にふれると、急に我に返ったように私の胸を押し返そうとした。
 どろりとした白い液体にまみれた手で、オブシディアンの手を握った。逃げられる前に、指のあいだに自分の指をからめた。
 つないだ手を自分の胸元に押し付けて、服が汚れるのもかまわずにもみこむと、彼はしわがれた声でもう一度、「待て」と言った。
 それ以外の言葉を忘れたかのように繰り返した。
「皮ふがやわらかくなれば、猫をなでることもできるようになります。草を振って気を引かなくても、直接、なでてあやせばいい」
 オブシディアンの願いはささやかだ。
 外に出たい、それだけだ。けれど誰ともかかわらず、好きなものもさわれない。それでは、地下牢にひとりきりで閉じ込められたままでいるのとちっとも変わらない。
レイヴンはオブシディアンを危険だと言ったが、私は別のことが気がかりだった。オブシディアンはそばに近づく人間を威嚇していたが、人を恐れているようにも見えた。
 オブシディアンは誰より強い。それなのに、人間なんかを恐れなくてはいけないのが、自分のことのように歯がゆかった。
 たとえば肌とか、身体の一部でも変えてやれば、気持ちも変わっていくかもしれない。そのための助けになりたかった。
 つないだ手が小刻みに震えていた。
「みな、私を恐れる……キミは、怖くないのか」
「このまま薬を塗り続けて、貴方の手が柔らかくなれば、さわられても傷をつけられずに済みます。そうなれば私も、貴方が怖くなくなるのでしょうね」
 淡々と答えると、オブシディアンは震える声で答えた。
「セーブルはおかしい」
「私のことはシャーと呼びなさい」
「……『シャー』は、こわい」
「『あれ』はもういませんよ。知っているでしょう」
 手を強く握った。それでも、オブシディアンは、私をシャーとは呼ばなかった。
 彼が前代の王である祖父を、シャーと呼んでいた時の記憶がろくなものではないとわかっていたから、本気で叱っているわけではなく、たわむれのようなものだった。
 遠慮なく両手でオブシディアンの身体にさわると、彼は背を丸めて私の足に縋りついた。
 太ももに押し付けられた、オブシディアンの顔は燃えるように熱い。服越しにその熱がはっきりと伝わってきて、私は知らずに微笑んだ。
「セーブル、セーブルやめて、くれ」
 懇願は弱々しく、年上の男のはずなのにまるで子どものようだ。頭を撫でた。まばらにしか髪の生えていない、しわだらけの皮ふ。
 拷問で傷つけられた背中。卵から孵ったばかりのヒナのように、オブシディアンは無知で無垢だ。
「貴方を檻の外に出してやると約束しました。行ってみましょうか?」
 オブシディアンは困惑した表情で、ゆっくりと私を見上げた。


 レイヴンに頼んで、オブシディアンと一緒に宮殿を抜け出した。
 もちろん、いい顔はされなかったが、私が「『中央』を治める王として、王都で暮らす民を見ておきたいのです」というと、手はずを整えてくれた。
 王宮の前に広がるメイダーネ・シャーは、朝早くから活気に満ちていた。
 商人は露店を設営し、商品を並べながら、通り過ぎる人波に声を掛けている。露店に足を止める客はさまざまで、飲食店の店主が自分の店で扱う品を吟味したり、仕事に出る前の腹ごしらえをする職人たちだった。
 私は人の流れを目で追い、流れを押し返すように湧いてくる民の数に目まいを覚えて、ふー、と息を吐いた。
 オブシディアンを連れ出すのが目的だったが、実のところ、私も王宮から出るのは生まれて初めてだ。
 民の日常の営みは雑然として、騒がしい。宮殿の静けさに慣れた私には刺激が強くて、目の前がちかちかする。オブシディアンはあたりを見回し、「ひとがたくさんだ」と言った。
 めずらしく、弾むような明るい声だったので、喜んでいるのだろう。
「これが、貴方の望んだ『外』ですよ」
 私も笑顔で答えた。
 近くにいた女が後ずさり、「きゃ」と小さな悲鳴を上げた。彼女はオブシディアンを見上げていた。彼はフードの付いた黒いローブで全身を覆っていた。
 そのいでたちは人目を引いたが、それまでフードを顔の前できつく握りしめていたため、足を止める者はいなかった。しかし、オブシディアンがまわりを見たことで、女が彼の顔の異様さに気が付いた。
 同じように、「おい、なんだあれ」という怯えた声が上がり、あたりがざわついた。
 オブシディアンは自分に注目が集まっているのだと気づいて、すぐにまた顔を隠したが、フードをつかんでいる手も人間離れしていた。
「見ろよ、あれ、人の手か……?」
 レイヴンが私の背を押した。
「シャー、馬車へお戻りください」
 私はオブシディアンを見上げた。猫背をさらに丸めて縮こまる姿は、道に迷った老人のように頼りなかった。彼の手をつかんで握りしめると、馬車まで走った。
 馬車に戻っても、オブシディアンは顔を上げようとしなかった。どう声をかけていいのかわからなかった。私が軽率だったせいだ。こうなると予想していたはずなのに、彼を喜ばせたいという思いだけで連れてきてしまった。
 私は彼を置いて馬車を下り、近くの露店に駆け込んだ。
 店主は小柄な老婆で、置物のように静かだった。糸のように細い目を片目だけ大きくして、私を値踏みした。
「食べ物をくれ」
 声を張り上げた。老婆は無言で、柱を指差した。そこには古びた看板がかかっていて、二種類の食材名が書かれており、どちらも果物だった。
 私は看板を睨んだ。それぞれの果物を使った食べ物を売っているのだろうと目星をつけて、「どちらもほしい」と言った。
 老婆は片手を差し出した。意味が分からず、また看板を見たけれど、果物の名前以外にはなにも書かれていない。
 背後からレイヴンが手を差し出して、老婆に銀貨を握らせた。黒の銀貨をひとつぶ握りしめた老婆は、じろりとレイヴンをにらんだ。
「こんな大金、釣りはないよ」
「釣りはいい」
 老婆から串に刺した果実を渡される。急いで馬車に戻ると、私はオブシディアンにひとつを手渡した。彼はためらいながら串を受け取った。
「なんだ、これは?」
 困ったようにつぶやく。
「さあ、私にもわかりません。果物のようですから、食べてみましょうか」
 レイヴンが馬車に入ってきた。
「お待ちください、シャー。私が毒見をします。用心に越したことはありません」
 王の食べるものには毒見が必要だ。常に暗殺の脅威にさらされているので、仕方のないことだ。
 オブシディアンは薄い舌をちろりと出して、串刺しの果実を舐めた。重いまぶたに隠れていた瞳が、ほんのりと輝いた。
「なんだ、これは」
 私はオブシディアンの手から串を奪った。見せつけるように、果実をかじった。表面に塗られたはちみつは、ねっとりと濃い。くちびるについた蜜をなめながら、自分の串を差し出して、「こちらも食べますか?」と尋ねた。
 オブシディアンは両手で串を受け取り、今度はなめずに丸ごとくちに入れた。混乱したように自分の喉元を指でつついた。
「のどのこの、ここら、へんがやわらかい」
 私は首を傾げた。もう一度、蜜を味わってから、オブシディアンの不思議な言い回しに気づいて、「それは『甘い』と言うんです」と教えてやった。
「あまい」
「悪くないでしょう」
「シャー」
 レイヴンの不満げな呼びかけが煩わしくて、「なにも問題はありません。毒見ならオブシディアンが済ませました」と答えた。
posted by eniwa at 00:00| トリロジー